第337章(1 / 1)
「報道する値打ちが生じたときには、何が起こったのか分からない状態になってしまっていた、というわけです」
「あの、ですから」
言いかけた津原を、男は何度目か、遮った。
「おたくさんがね、神経質になるのは分かりますとも。なにしろ妙な事件でしたからね。近辺の住人の証言を信じる限り、外場では昨年の夏以降、信じられない数の人間が死んでいたはずなんです。ところが戸籍を調べてみると、死人なんかでちゃいない。そういうね、怪談話のような事実が、鎮火して住民が離散した後になってゴロゴロ出てきた。焼け跡から出てきた、あの死体みたいにね」
男は口許を歪める。
「外場で何かが起こっていたんです。そのあげくに住人の誰かが放火して村は焼失し、あの惨状だけが残された。何が起こったのかは分からない。死人の数から考えても、外場村の住人の多く――ひょっしたらほとんどが関係していたはずなんだ。ところが、あの大火のせいで外場って村は、もはや存在しないも同然だし、肝心の住人だって離散しちゃってる。なんとか行方を探し出しても、何も知らないか、さもなければ頑強に口を閉ざす。完全に行方をくらました奴もいる。それどころかあの後、首を縊ったり病院に入った者も少なくない」
「……ええ」
「室井さんはその渦中にいたんですよ。しかも室井さんの家は、外場では威光のある寺だったっていうじゃないですか。寺の坊主が読経しなくて、誰が死者を葬るんです。室井さんは絶対に詳しいことを知ってるはずだ。ぼくはそれをですね、ぜひとも聞かせてもらいたいわけですよ」
言って男は津原の顔を覗き込む。
「ひょっとして、室井さん。そちらで書いてるんですか」
「何をです」
「ですから、例の事件を、ですよ」
いや、と津原は首を振った。
「じゃあ、こうしませんか。ぼくに室井さんのインタビューをさせてくれる。それをまとめて、そちらさんから本にする」
津原は少し、空になったカップの中を見つめた。
「……それはできないんです」
なんで、と相手は不満そうな声を上げた。
「どうしてそこまで頑強に隠すのかな。ひょっとして、室井さんを庇ってるんですか」
「そういうことじゃないです。室井は消息が分からないんです」
あのね、と苛立ちを露わにした相手を、今度は津原が遮った。
「本当に分からないんです。匿っているわけでもないです」
「でも」
「あの事件が新聞に出る前にですね、その本――『屍鬼』の原稿が送られてきました。住所は伊豆の旅館になってました。しばらくそこにいるということなので、そこで校正までやってもらいましたが、室井は校了と同時にそこを引き払いました」
「今、どこに」
「分かりません。それきり、音沙汰がありませんから。事件については何も聞いてません。いまは訊かないでくれ、というので無理には訊かなかったんです」
「そりゃあ、通らない。校了で接触が終わるわけじゃないでしょう」
「終わりだったんです。見本誌を送ろうにも送り先が分からなくて、念のためあちこちに発送してみましたが全部が転送されて戻ってきました。いつもの口座に印税を振り込もうとしたら、口座も解約されていました」
津原は呆気にとられたような男を見つめる。
「最近になって葉書が来ましたが、住所はありません。印税は適当に寄付してしほしいと」言って、津原は自分の手を見下ろす。「――あれが室井という作家の絶筆です」
津原は困惑したままの男を残して喫茶店を出た。暦の上では春になったが、陽の落ちた街を渡る風は冷たかった。肩をすぼめて足早に社に戻り、連絡板の書き込みを消す。自分の席に戻ると、机の上に津原宛の郵便物が積まれていた。ざっと差出人を検め、窓際にある棚の上に放り出していく。このところ、郵便物を検めるたびに必ず感じる落胆を今日も感じながら席に戻った。椅子に坐って息をつく。上司の手から返ってきた葉書は、今もそこにある。
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津原 様
書店で拙作を見ました。立派な本にしていただき、ありがとうございました。
連絡を絶って申し訳ありません。お手数ですが、印税等につきましては、寄付するなり何なりと、宜しいようになさってください。
津原さんにはお別れを申し上げます。これまでお世話になりました。
これ以後、室井は死んだものとお考えください。
これまでの御厚情に、心から感謝いたします。
[#地付き]室井 拝
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津原はしばらくその文面を眺め、それを再び抽斗の中にしまった。机の上に広げたものを適当に掻き集め、抱えて棚の上に置く。代わりに郵便物を抱え上げた。
窓の外を見たのは偶然だった。
ネオンが瞬く街路を見下ろし、細い小道を挟んだ向かい側に何気なく目をやる。三階下の喫茶店の前に、上を見上げている人影があった。視線が交わったように思ったが、確証はない。津原のほうを見上げた少女は、ふいに視線を路上に戻して、夜の道を大通りのほうへと歩いていった。
少女は白いコートのポケットに両手を入れて、雑踏を縫って歩いた。
大通りに出ると、停車灯を点けて歩道脇に停まった車に歩み寄る。少女が助手席のドアを開け車に乗り込むと、運転席で俯いた男が少女に何事かを話しかけた。少女は二言、三言、言葉を返す。男は頷いて、車を出した。
車両は都会の通りを流れるテールランプの一滴になり、そのままそこに埋没して消え去った。
底本:「屍鬼(下)」新潮社 小野不由美著
一九九八年九月三〇日 初版第一刷発行
本文中、室井静信作として挿入される作中作の小説は底本では太字書体で表記されています。青空文庫形式テキストでは書体の差異表現はできないため、該当作中作部分、およびその他の太字表記部分は四文字の字下げとしてあります。
【底本中の誤字等】
一六四〇行目:「お笑い草」→「お笑い種」の誤り?
四五七四行目:「一部の隙もなく」→「一分の隙もなく」の誤り
五一八七行目:「返えし」→「返し」の誤り?
五四七一行目:「忿らせる」が読めない。「いきどおらせる」「おこらせる」「いからせる」? 当て字はルビがないとどうにも……
六〇八七行目:「呈に」→「体に」の誤り?
六二〇三行目:「資料」→「試料」の誤り
八〇七七行目:「眥が避けるほど」→「眥が裂けるほど」の誤り
九〇八一行目:「千裂石」読み、意味不明。解説求ム。
一二六九一行目:「食い緊げる」読めず。「くいつなげる」かな?
テキスト化 二〇〇四年十月
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