第259章(1 / 1)
しかし、忘れようと努めている鉄平の死を思い出すと、またしても涙がこみ上げて来そうになったが、今朝《けさ》、ピッツバーグの一之瀬四々彦のもとにいる二子から、二人きりの挙式を待つばかりですという便りを受け取り、あとは三子の結婚と銀平の再婚を自分の手でしなければならぬことを思って、寧子にもようやく世の母親らしい責任の重さが肌身に感じ取られた。その三子はこの春からアテネ.フランセに通うために一足先に東京の邸へ移り、銀平は明日の地元での新銀行披露の準備のために、今夜は帰りが遅くなる。
「相子さん、こんな時、あなたもお子さまがあれば、およろしかったのに――」
寧子の口から、ごく自然に出た言葉であったが、相子の胸には刃《やいば》のように鋭く突き刺さった。人の子供を教育し、良縁を探して結婚させ、閨閥《けいばつ》の枝を拡げたことは、一体、自分にとって何を意味するのだろうか。たしかにより有力な閨閥づくりをすることによって、万俵家の家内《いえうち》を自由に差配し、それが企業の繁栄に繋がるという権勢欲に似た満足感は得られたが、それが自分にとって何であったろうか――。それに比べて寧子という人間は、長男の鉄平を失ったとはいえ、飾り雛《びな》のように万俵家の奥深くにただおっとりと坐って何もしないでいて、再び妻の座を取り戻そうとしている。相子はテーブルの上のカトレアを引きちぎりたい衝動に駈《か》られた。
「相子、千里桃山台のマンションは気に入ったかい、南向きで陽あたりもいいし、間取りもよさそうじゃないか」
万俵はそう云いながら、相子がはじめて子供たちの家庭教師として万俵家へ現われた時の才気に満ち溢れた若々しさを思い返していた。あの時から比べれば、当時の若々しさは失っているが、それに代る熟《う》れた濃艶《のうえん》な肢体がある。その体を今夜限りで手放し、妻妾同衾の娯《たの》しみを失うのかと思うと、三台のベッドが並んだ寝室で交わり合ったさまざまな姿態が眼にうかび、俄《にわ》かに脂《あぶら》ぎった執着を覚えた。だが、男の企業的野心を果して行くためには、眼をつぶらねばならない。一つの銀行を食う悦《よろこ》びに比べれば、一人の女を気ままにする娯しみは、高価な美術品に淫《いん》する類《たぐ》いのものに過ぎない。
鱸《すずき》のムースリーヌの皿が運ばれて来ると、大介は寧子と相子にワインを注《つ》いでやった。
「相子さん、やはり当分、何もなさらないおつもり? あなたのような方が、何もなさらないなど、もったいのうて――」
寧子は溜息《ためいき》をつくように云ったが、相子は、万俵の計らいで生活に困らないというだけで、今後、何をするかということは決まっていなかった。たった一人の肉親である高校の教師をしている弟が、再婚をすすめたものの、日本の煩《わずら》わしい家族制度の中で気苦労の多い再婚をする気持など、さらさらない。そうなると、再び外国へ行って、そこで安楽な生活の場を見付けるよりほかになさそうだった。
「また、外人と再婚しそうですわ」
グラスに口をつけ、ことさらに艶然と笑うと、寧子は驚いた顔をしたが、大介は明らかに不快な顔をし、気まずい沈黙が流れた。
突然、室内電話のベルが鳴った。相子が窓際《まどぎわ》に近いサイド.テーブルの上の電話を取ると、美馬からであった。
「あら、美馬さん、先日はどうも――、私たちは今、最後の晚餐をしているところですの、明日は何時頃、お着きになりますの」
明日の神戸における新銀行の披露パーティにも、美馬は、主計局の出張をかねて、本省役人の立場で出席することになっているのだった。
「え? そのことで万俵に――、すぐお替り致しますわ」
と云うと、万俵はテーブルをたって、受話器を取った。
「もしもし、私だ――、今日の披露パーティには何かと有難う、明日も頼むよ」
上機嫌で云うと、
「実は明日のパーティですが、伺えなくなりました」
「急に、どうしてなんだい?」
「実は近畿《きんき》財務局での仕事が長びきそうで、とても神戸まで行く時間がないのですよ」
「だが、どうにか時間のやりくりがつかないのかね、顔を出してくれる程度でいいのだが――、次の七月人事で春田局長は次官に昇進し、銀行局長がかわるのは確実らしいので、その辺の動きについても、ゆっくり君の話を聞きたいと思っているんだよ――」
大介が云った途端、美馬は電話器の向うでおし黙った。
「もしもし、中君、どうかしたのかね?」
「いえ、別に――、ともかく、明日は失礼します」
向うから、電話をきった。万俵は、美馬の声がいつもの女のように鼻にかかった声と全く異なったよそよそしさがあることに気付いた。そして、昼間のパーティの時の様子を思い合せ、美馬が素直に喜んでいない不自然なものを感じた。
万俵は窓際に寄り、窓の外へ眼を向けた。広い邸内の高みにある鉄平の住まっていたル.コルビジェ式の建物が見えた。灯りは点《つ》いていないが、白い建物が闇の中に、ほの白く浮かび上っている。鉄平の葬儀後、早苗に子供たちを連れて帰って来るように云ったが、子供の学校の問題もあり、早苗は暫《しばら》く東京の実家で子供を育てたいと云い、戻って来ない。そして隣接する銀平の南欧風の建物も、灯りこそ点いていたが、万樹子は離縁《さ》り、銀平も不在がちで冷え冷えとしたうそ寒さに包まれ、一万坪に及ぶ宏大な邸内が、俄《にわ》かに荒涼とした死人の棲家《すみか》のように思え、遠くでかすかに聞えるもの音が、骨の鳴る音のように聞えた。
万俵の脳裡《のうり》に、猟銃自殺を遂げた鉄平の無惨《むざん》な顔がうかんだ。
「あなた、なにか……」
怪訝《けげん》そうに寧子が声をかけた。
「いや、少し疲れているんだろう――」
言葉を濁した。銀行の合併は成功したが、それが鉄平の死を犠牲にして購《あがな》われたという事実は、生涯、拭《ぬぐ》い去れぬものだと思うと、万俵の心を満たしていた成功の喜びは冷え、怖《おそ》れを覚えた。
万俵はテーブルに戻り、再びフォークを手にしたが、もう話すことはなくなっていた。寧子と相子も、話題を失《な》くしていた。人気《ひとけ》のないがらんとしたダイニング.ルームには、曾て万俵家の華麗な一族が団欒《だんらん》したさざめきはなく、三人の使うナイフとフォークの音だけが、天井に音高く響いた。
[#改ページ]
あとがき
『華麗なる一族』は、週刊新潮に二年七カ月連載した小説で、私にとって困難な仕事であった。“金融界の聖域”である銀行の取材は、覚悟していた以上に困難で、その閉鎖性は医学界よりさらに聖域であることを痛烈に感じた。取材と金融の基礎勉強に半年余りも費やし、小説以前の作業にこんなに時間を費やしていいものかという疑問も持った。しかしそうした取材の積み重ねによって、銀行と政、官界のこれまで窺《うかが》い知ることの出来なかった結びつきとそこに介在する人間ドラマを観《み》ることが出来た。
しかし、この小説に登場する銀行、官僚、政治家たちには、決して特定のモデルはない。事実との間にどのような類似があったとしても、それは偶然の酷似であり、どこまでも虚構のものであることをお断わりしておきたい。
連載を終ってから、さらに取材して加筆訂正し、上中下三巻にまとめることが出来たのは、関係筋の心ある方々の陰のご尽力と、秘書野上孝子の協力によるところが大であることを明記致したいと思います。
昭和四十八年二月
----------------------------------------------------------
书快书快,看书最快!书快电子书论坛:http://www.shukuai.com
----------------------------------------------------------